南相馬レポート2012.3.10〜3.11

調査と打ち合わせのために週末、南相馬に行ってきた。
いみじくも、あの大震災の日からちょうど一年。
式典や追悼の集いが全国で行われる日と重なった。


↑「3・11南相馬希望の灯り」市民文化会館(ゆめはっと)正面


今回の調査参加人数は9人。
南相馬チームの6人、楢葉町チームの3人に分かれて出発した。
楢葉町チームは今回から新潟大学災害復興センターより譲り受けた車両「パジェロ」での出動。
車体が大きく、車高も高いので、線量測定も補正が必要とのこと。
私は南相馬チームの一員として一路南相馬へ向かった。

出発の3月10日は朝からあいにくの天気だった。
雪交じりの雨が降り久しぶりに冬が戻ってきたような1日だった。
空気も冷たかった。
飯舘村から南相馬市に抜ける山道には所々、道路にも圧雪が残っていた。
お昼頃には南相馬市に到着し、市役所でお弁当をいただき、さっそく打ち合わせに入った。
教育委員会では、昨年から行ってきた小中学校の校庭や遊具、プールの除染が終わったところ、校庭に入れた新しい土が風で飛んでしまうのを防ぐように工夫した部分など、様々、苦労と工夫を重ねて、ここまできた様子を教えていただいた。
そして、現地の視察と汚染物の測定や採取を行った。

次々に小学校・中学校を教育委員会の木幡さん・郡さんが案内して下さった。

冷たい雨が降りしきる中、土曜日にもかかわらず、一箇所一箇所、問題点を伝えて下さった。
こちらではチームとしてやれることを今まで通り協力できればとの思いである。
除染はいったん終わっても、この放射能問題が完全に終止符を打ったわけではない。むしろ、これからが始まりとさえ言える。
今後、南相馬市にも今までと同じように、さらに次々に新しい問題が降りかかってくるに違いない。
しかし、状況はすぐに良くなるわけではない、そして、急に悪くなるわけでもない。
着々と、眼前の問題に対して、対処するしかない。

私たちは、医学的見地、放射線の専門的見地から、そして、地理情報システムをつかった視覚的表現法を駆使して、南相馬市に住んでいる方々のために、少しでも役に立てるように、今まで通り、活動を継続していくだけである。

夕方になり、市役所に戻った私たちは、昨年夏から南相馬市教育委員会と共同作業で市内の放射能測定を車載測定器で測定・記録してきた結果をWeb-mapであらわしたものをご紹介した。

今まで、静的なmapで通学路の線量率を表現し、南相馬市のHPで公開していただいてきたが、今後、さらに使える地図・自由度の高いものとしてWeb-mapを提案させていただいた。
この地図は、以前に紹介したUCLAGIS(地理情報システム)の専門家として学生を教えているYoh Kawano氏の全面的な技術協力の下に出来上がった地図である。
住民の皆さんが、インターネット接続さえあれば自由に使える地図が完成したので、今回、初めて提示させていただいた。

今後、何かの形でこの地図が南相馬市の復興のお役に立てることを願ってやまない。
新潟大学として、のべ二十数回に及ぶ南相馬市の調査、そして、南相馬市教育委員会の協力、さらには、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の技術協力をえて、このような形が出来上がった。
今後も、日本全国のみならず、世界の注目を浴びる南相馬市・福島の復興は世界の知性・科学の粋を結集して行っていく大事業であると思う。
おおげさな言い方かもしれないが、科学の最先端が作った原子力によって起きた大災害によって、苦しむ人が一人でもいる以上、科学の最先端による技術・経験・知識を世界中からかき集めて解決に力を注ぐことが正しいと思える。

私自身にそのような力はないが、皆の知恵と力が集まることで、何かの役に立てればという思いである。


夜の南相馬は風が冷たかった。
町は人通りこそなかったが、店に入ると賑わっていた。
復興に向けて少しずつ人が集まっていることが嬉しかった。


翌日は朝8時半より除染対策室の横田さんとの打ち合わせ。
横田さんは、南相馬市の現状を事細かに語って下さった。
横田さんご自身も家を津波で失い、家族は別のところに避難していた。それが、この春からようやく南相馬で家族で暮らせるようになりそうだとのことだった。
1年を経てようやくの春。
しかし、まだまだ南相馬市が抱える問題は山積している。
本当の春が訪れるのを、目の前の課題を着々とこなすなかで、待つしかないのだろうか。
私たちは、このように困難に向かって前進する方々がいる限り、少しでも支えになるようなことができればと願う。

午前中、現地調査を行った。
現地へ足を運ぶ、自らの目で確かめ状況を把握する、その上で科学的な根拠となる測定や解析を行う。現実を把握し、解決していくためには、この繰り返し以外に何もない。

南相馬市役所の目の前にある「ゆめはっと」の前には、復興のシンボルとして灯火がともっていた。

私たちは慰霊祭式典の署名をし、南相馬市の復興に今後も努力していく心を込めた。


式典は午後2時15分からの開始。
私たちは早めの昼食を市内ですませ、式典が始まる前に南相馬を後にした。

あの大震災からちょうど1年となる午後2時46分を私たちは新潟への帰路の途上で迎えた。
会津盆地一面にうすく白い雪がおおっていた。

福島に本当の春が訪れることを祈りながら、新潟への道を走った。

(by Yugo)