7/17-18 浜通り北上

海の日の翌日から、7/17-18で福島県浜通りを北上する調査を行ったので紹介したい。


南相馬市役所前にて)

昨年夏以来、継続して行ってきたBISHAMONプロジェクトの一環として、今回は、新潟大学チームとCollaborationする形で、Web-mapの作成を精力的に進めてきてくれたUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)のYoh Kawanoが来日しての、現地を視察となった。


↑Yoh Kawano

Yohについては、以前にブログでも紹介したように、2011年5月にHarvard大学で行われたGIS(地理情報システム)の国際会議で初めて会い、当時、自分がカリフォルニアに留学していたことから、UCLAの彼のofficeに行ったり、GIS関連のカンファレンスに一緒に参加するなどして、交流してきた。彼の専門はGISを使ったvisualizationで、効果的な視覚化を得意としている。また、震災を契機に、social network media(twitterfacebook)が一人の命を救うかもしれない、という可能性を追って、様々な活動を続けている。

彼の生まれは大阪であり国籍は日本なのだが、生まれてほどなく、父親の仕事の都合でコロンビアに渡る。11年間をコロンビアで過ごした後、タイで初めて日本語を学ぶ。大学は日本の大学を卒業し、後にUCLA修士号を取得している。母親はフィリピン人、幼いときは、兄弟同士はスペイン語、母親とは英語、父親とは日本語、という複雑な環境で育った。そのような環境で生まれ育ったせいか、彼は自分のidentityが何なのかが分からなくなっていたという。そこに、あの震災が来た。

Yohの心は大きく揺さぶられたという。今まで自分が日本人であるかどうか、分からなかった。しかし、震災後に感じた衝動のような感情、どうしても何かしなくてはならないという湧き上がる感情に、やはり自分は日本人なんだと改めて思ったという。

その気持ちが彼を復興支援活動に向けていく。

そして、GISを使ったボランティア活動を思いつく。


僕がYohと出会ったのはこの後だった。
Harvardでのカンファレンスで僕はYohに話しかけた。彼はとても気さくに、そして、日本人と出会ったことに驚きを隠せない様子で、話をしてくれた。自分にとってはカリフォルニアから来て、1ヶ月間のボストン滞在の始めにこのような出会いがあり、とても勇気づけられたのを覚えている。

彼は、何でも積極的にチャレンジしていくタイプで、当時、僕が取り組んでいたインフルエンザの拡大パターンの視覚化にも積極的に意見を述べてくれた。

そして、そのような何でもチャレンジしていく積極性が、今回のBISHAMONプロジェクトでは遺憾なく発揮されたと言える。

5月に彼と出会って2ヶ月後、僕は日本へ帰国し、新潟大学に戻った。そこに待っていたのは、震災後の復旧に懸命な人々の姿、放射線による汚染被害に苦しむ人々の現実だった。あの震災当日、カリフォルニアにいた僕は、被災した人の苦しみや悲しみを分かち合う資格すらないと思っていた。しかし、それでも、何か役に立ちたいと思い、カリフォルニアのオフィスから避難所の情報を地図にして発信し続けた。

何かできないだろうか、そんな思いで帰国した僕に、内藤眞先生率いる新潟大学アイソトープ総合センターの復興支援活動に協力できるチャンスが巡ってきた。

ミャンマーのインフルエンザプロジェクトで内藤先生と私たちの国際保健学教室は先代の鈴木宏教授時代から、お互い協力し合ってきた仲であった。新しい齋藤玲子教授もこのプロジェクトへの参加を了解してくれ、教室としてプロジェクトに参加することとなった。

この経緯については、このブログでも再三お伝えしている通りである。

BISHAMONとはBIo-Safety Hybrid Automatic MOnitor-Niigataの略で、アイソトープ総合センターの後藤淳先生が開発した車載線量率測定システムのことであるが、これを使って主に南相馬市の通学路を中心に測定を継続し、南相馬市への情報還元を行ってきたことから、プロジェクトそのものの名称としてBISHAMONと名付けた。もちろん、名付け親はプロジェクトリーダーの内藤眞先生である。

昨年夏から始まったこのプロジェクトで、通学路の線量率地図を作っていたところ、先に紹介したYohから、これをWeb-mapにしたら、もっと多くの人が自由に見ることができて、役に立つのではないか、という提案をもらった。
提案するが早いが、彼はあっという間に、このWeb-mapシステムを作り上げた。
あまりにも先進的で自由度の高いシステムであるがために、自治体での利用が可能かどうか僕には自信がなかった。しかし、現段階で、昨年より長く復興・除染のための支援を続けて来ている南相馬市浪江町では、このWeb-mapを実際に利用しようという準備が整いつつある。
だいぶ前置きが長くなってしまったが、そんなわけでBISHAMONプロジェクトのWeb-map作成を実質的に担ってきてくれたYohが今回、初めて、現場である福島に視察に来ることになった。

7月17日
前日は大変な暑さであったが、この日は曇りであった。朝7時東京発の新幹線に乗ったYohは9時前に新潟に着いた。
初めての新潟訪問となったYohにとっては、短すぎる滞在であったが、国際保健学で教室員に紹介した後、齋藤先生と懇談し、いよいよ出発となった。

出発前にアイソトープセンターで簡単な打合せがあったが、この際、内藤先生から嬉しいプレゼントがYohに贈られた。
Yohと一緒にBISHAMONプロジェクトに参加し、主にプログラムを担当してくれているDavid Shepardにも同じプレゼントが贈られた。


アイソトープセンターでの打合せ)


(BISHAMONチームのシャツが贈られた)


(後藤先生から装置の説明を受けるYoh)


今回の参加メンバーは平日で泊まりという環境で、内藤先生、後藤先生、Yoh、そして僕という4人であった。パジェロに新たなシステムBISHAMON 3を載せて12時過ぎに一路浜通りへ出発した。


磐梯山サービスエリアにて)

磐梯山は曇っていてほとんど見えなかったが、暑すぎず、天候に恵まれた。
磐越自動車道をひた走り、郡山を抜けていわきに至る。
初日の目的である楢葉町役場いわき出張所は、いわき明星大学近くの大学会館にある。
16時近くにここに到着した。


楢葉町役場:いわき明星大学・大学会館)

手狭なスペースで業務を行っている様子がすぐに見て取れた。
町役場の担当者とは、BISHAMONのデータと地図の有用性を確認し、今後も継続的に測定していくこと、地図を有効利用することで合意した。
楢葉町の大部分は20km圏内にあり、南相馬市と比べて復興のペースは遅い。しかし、今後、線量率の低い地域を起点とした復興を進める必要がある。
その際、継続的に確かなデータを蓄積していくことと、それを視覚的に分かりやすく見える状態にしておくこと、そして、時間を追って比較が可能であることがとても重要になっていくことは間違いない。

今後の復興計画にぜひ、役立ててほしいと切に願う。

復興特需で賑わういわきの街も楢葉町役場の職員によれば、だんだん落ち着いて来たという。宿泊も簡単にとれなかった半年前と比べると、確かに少し落ち着いて来たのかもしれない。

夕食は、BISHAMONプロジェクトとYohの半生について、尽きることなく語り合いながらの楽しい会食となった。


7月18日
晴れ時々曇り

朝8時にいわきを出発する。平日のため、通勤ラッシュの中を北上する。

いわき中央インターより常磐道に入り、北上。常磐道は片側一車線で通行する車両はトラックが多い。広野インターチェンジで災害通行止めとなる。この先、福島原子力発電所のすぐ脇を通るため、高線量率で未だに通行できない。そもそも富岡と南相馬の間は平成23年度に開通予定であったが、震災と原発事故の影響で開通そのものが遅れてしまっている。

広野インターを下りて、いつも昼食をとるラーメン屋の駐車場で防護服を着る。ちょうど同じタイミングで、すぐそばの土地の除染(表土はぎ取り)が始まっていた。


(表土はぎ取り作業)

Yohは珍しそうにシャッターを切っていた。

Jビレッジの検問を通り、楢葉町の20km圏内に入る。

そこは2月に見たときの風景とほとんど変わらない。
屋根が壊れ、ビニールシートをかぶった家々は変わらずそのままの状態。点滅信号も相変わらずだった。しかし、行き交う車の台数が心なしか増えていたのではないかと思う。

以前のデータとの比較のために、町役場周辺と、以前のホットスポット周辺の線量測定を行い、一路北上した。


ホットスポットの測定)

北上する経路は国道6号線
まさに、福島第一原発のすぐ横を通り抜ける。

後藤先生が新たに開発したBISHAMON3には原発からの直線距離が分かる機能が付いた。原発からの直線距離が2.4kmの場所を通り抜ける。

線量計の針は30μSv/hを振り切った。
色もにおいもない放射線であるが、今なお、紛れもなく、人々の故郷が汚染され、罪のない人々が家にも故郷にも帰れずに路頭に迷っていることが実感として胸に迫った。

数十分車を走らせて浪江町役場に到着した。
役場には職員の方々が既に私たちの到着を待ってくれていた。


浪江町役場にて)

浪江町の中を走り、請戸小学校に着いた。
周りはすべて津波に流されてほとんど何もない。
がれきの山だけが校庭に積まれて、草が生えていた。


(請戸小学校の内部)


(校庭はがれきの山)


(がれきの山の向こうに福島第一原発が見える)

2階に上ると教室のベランダからは福島第一原発が見える。
すべての教室の時計は3時38分で止まっていた。
津波の第一波が来た時間だろうとのことだった。
黒板の日付は「3月11日」のまま。
黒板には、自衛隊隊員が残していったと思われる「頑張れ」の文字。
時間が止まっていた。


(黒板に残された文字)


(体育館では当日、卒業式が行われていた)

同日、卒業式が行われた体育館の床は大きくひしゃげて穴があいていた。
地震津波の破壊力の凄まじさを物語る。
東北地方を襲った、あの地震、あの津波は、数百キロにわたる長い海岸線を一度に破壊した。ある地域ではがれきの撤去が進み、ある地域では復興が進んでいる。また、ある地域では、あまりにも大きく破壊されてしまったために、もとの町を作るのは難しいのではないかというところもある。

そして、ここ浪江町では、地震津波の被害に加えて、放射能という見えない汚染がすべてを阻んでいる。
人々が故郷に帰りたいのは当然だろう。
しかし、そうできない状況は、線量計の指す値が物語っていた。
それでも、海岸部は線量率が低い場所が相当ある。
復興への道のりは決して楽ではないが、一つ一つ難問を解決しながら進み続ける他ない。

福島第一原発の建屋が見える場所にも案内していただいた。


(奥に原発が見える)


(左に原発建屋が見える)


(ご遺体の捜索が続いている)


津波の痕がそのまま残る。
海岸を数十人の人が防護服を着て歩いているのが見えた。浪江町役場の職員の方の話ではご遺体の捜索だそうである。浪江町でも行方が分からなくなっている人が今なお30数名いらっしゃるという。捜索が打ち切られることなく続いている。そんな現実が、同じ日本で続いていることに改めて何とも言いようのない悲しさを覚えた。震災と原発事故からすでに1年4ヶ月が経過した。日常生活の中では、あの悲劇を過去のものとしてとらえてしまいがちだ。ともすると、原発から二百数十km離れた新潟では、すでに日常を取り戻し、すっかり忘れてしまうこともできる。
しかし、被災地に再び足を踏み入れると、そこにはまだ非日常が続いており、今なお、緊急事態であり、安心して生活できる状況からはほど遠い。特に、浪江町の方々は町に戻ることすらできず、仮設住宅暮らしが続いている人も少なくない。

このような現実をニュースで聞くのと、実際に土地に入って感じるのとではずいぶん違う。最近は、ニュースでも取り上げる頻度が減ってきている。

Yohは今回の訪問で何を感じただろうか。
アメリカにいてはとても実感として福島で何が起きているのかを知ることはできない。実際に自分の目で見て、現地の方から話を聞くことでしか得られないものがある。
Yohが今回、実際に自分の目で確かめたことによって新しいアイデアがどんどん浮かんだに違いない。
Web-mapだけでなく、あらゆる可能性が広がったのではないかと想像している。

浪江町を後にした私たちはさらに北上し南相馬市に向かった。
浪江町を出る際に検問を受ける。
南相馬市の小高区に入るといつもより車通りが多い。4月に20km圏の立ち入り禁止が解除され、線量の高低により立ち入りできる場所が増えた。このため、車通りが多いのは間違いないが、まだ、住むことはできない。

原町に入り、放射性物質の服への付着等がないかどうかカウンターで調べるためのポイントに行く。ここで、防護服を脱ぎ、ようやく一息ついた。


放射性物質の付着がないかどうか調べる)

昼食後に、南相馬市役所の教育委員会の方々と意見交換を行った。この意見交換も何回になっただろう。いつもの通り教育長室に通され、現状の報告や問題の討議があった。Web-mapを公開する件について、すでに南相馬市側では公開の方向で話を進めていただいており、あとはこちらの準備次第というところまで来ている。

Web-mapの公開については別の機会に報告したい。

後藤先生が南相馬市に常駐しているBISHAMONシステムの点検を終えると、私たちは車に乗り込み、飯舘村の通行禁止になったポイントを確認し、さらに福島市に向かった。

Yohは福島駅から新幹線に乗って帰路につく。

彼がBISHAMONプロジェクトに貢献してくれた内容は大きい。
すべては自発的な精神から出ている。
BISHAMONメンバーは皆、自分の立場や仕事がある上で、自分の専門性を生かし、時間を使い労力を費やしてプロジェクトの遂行に貢献している。
決して時間があるわけではない中、自分ができることを着々と進め、それを続けていくことは簡単ではない。
しかし、震災と原発事故の後、苦しむ人たちが数多くいる現状を今回のように現地で目の当たりにするたびに、まだまだやれることはある、と強く感じる。
何よりも、プロジェクトを継続することが重要であり、今後も自分のできる分野の協力を続けていきたいと思う。

Yohも現地で何かを感じたことだろう。
彼の表現力、visualizationの技術を使って、これから次々に新しい提案をしてくれるかもしれない。
国を超えて、英知を結集することは口で言うほど簡単ではない。
しかし、明確な目的を持ち、互いに議論を尽くしながら進んでゆくならば、互いの力は足して二倍になるだけでなく、数倍にも数十倍にもなって、新たな波紋を起こしてゆくに違いない。

2日間のレポートのつもりが、ややまとまりのない文章に終始してしまったが、今回の活動は紙面に語り尽くすことができない大事な何かを再確認する旅になったのではないかと思う。

Yohはそろそろロサンゼルスに着く頃だろう。

来週、サンディエゴで行われるESRI International User ConferenceにBISHAMONプロジェクトを紹介するために、僕も週末に渡米する。

発表はYohと二人で行う予定だ。

世界が注目する福島の復興と人々の声をできるだけ正確に伝えてこようと思う。