楢葉町訪問 2/11,12

 2月11日〜12日の2日間にわたり震災と原発事故からの復興支援のBishamonプロジェクトの一環として楢葉町に行ってきた。新潟大学アイソトープ総合センターからはセンター長の内藤先生と中心的役割を果たす後藤先生、そして、国際保健学教室からは私(菖蒲川)が参加した。
 南相馬市保育所の除染活動から端を発したこのプロジェクトでの活動は何度か当ブログでも紹介してきたが、楢葉町に行くのは初めてだった。
 楢葉町福島第一原発の南側にあり、その大部分が原発から20km圏内にある。原発事故の対応拠点となっているJヴィレッジ楢葉町の南端とその南にある広野町に跨がっている。一方で、楢葉町の北端には福島第二原発が立地している。事故後、全範囲が30km範囲にある楢葉町の住民の大部分はさらに南側に位置するいわき市へ、一部は姉妹都市会津美里町に避難した。役場も20km圏内にあるため、現在では楢葉町役場もいわき出張所と会津美里出張所に分かれている。

 新潟中央ICからいわきJCTまで、日本海から太平洋まで磐越道を端から端まで走り、そこから常磐道を北上する。常磐道に入ると横風が強く、車は左右に揺れた。常磐道は広野ICの先は「災害通行止め」の文字、その先は福島第一原発20km圏内に入る。雪の影響もなく私たちは予想より早く楢葉町に到着した。
 昼食後、楢葉町の担当者である菅波さんと対面し、簡単な打ち合わせを行った。菅波さんは町の車両”Peugeout308”で現れた。その前面と側面には「東日本大震災復興支援車両」と書かれていた。聞けばプジョー社からの寄贈とのことだった。他の町でも同様の支援があったようで、市町村の合同会議では会場の駐車場にプジョーがずらっと並ぶそうだ。

 菅波さんの話から町の手探りの現状がよく伝わってきた。毎月、線量率を測定するポイントを決めて測定しているそうだが、その数値の解釈をどうしたらいいのか、よりどころとする国の方針も定かでなく、漠然とした不安を抱えながら復興活動に当たっているという。そのような中を、楢葉町職員として懸命に尽力されている姿に心を打たれた。当日も、「風邪をひいてしまって」と真っ赤な顔にマスクをつけて、それでも終日、私たちのガイドを務めて下さった。
 Jヴィレッジの脇の検問で楢葉町からの許可証を見せ、チェックを受けると、私たちは20km圏内に入った。


↑20km圏内の検問

↑許可証を見せて圏内へ

↑許可車両以外立ち入り禁止の標示

 20km圏内は静けさに包まれていた。すれ違う車両は少なく、信号は全て点滅している。車両ですれ違う人々は私たちを含め皆、白いマスクをつけている。もちろん、白い防御服を着用している人も多い。この日は一時帰宅に帰られる住民の方がいらっしゃるそうで、住民を乗せたマイクロバスをそこここで見かけた。ほどなく、楢葉町役場に到着した。

楢葉町役場正面

 町役場には消防の人の姿が見えた。役場は建物こそ崩れなかったが、周囲の地盤のあちこちにひびが入っている状況、電気はきているが水道はまだ流れないという。内部は荒れた様子であったが、幸い致命的な建物のダメージはなかったようだ。私たちは、空気中に有害な放射性物質を含む粉じんが舞っていないかどうかを確かめるため、ダストサンプラーによる調査を開始した。

↑ダストサンプラーの設置

 ダストサンプリングを行っている間、菅波さんがいつも線量測定を行っている地区の公民館・集会所等を回るルートで、町全体の走行サーベイを行うことを提案してくれた。菅波さんの提案通り、町全体を案内してもらうことにし、大まかなサーベイマップが町の復興準備に役立てればと車を走らせた。菅波さんが運転するプジョーの後を追って、私たちは車を走らせた。当然ではあるが、今まで経験してきた走行サーベイと全く異なり、ほとんどすれ違う車はない。そして、道路も所々大きな亀裂が入っていたり、通行止めの箇所も多い。家の塀はあちこちで倒れたままになっており、道路に破片が散乱している。何もかもが震災の衝撃・その凄まじさをそのままの姿でとどめていた。



↑倒れたままの塀が道路に散乱している

 菅波さんは「お見せしたい場所があります」と車を走らせた。道はあるものの、所々亀裂が入った道、藪や倒れた木で覆われた道をどんどん走る。車の下からカタカタと規則的な音が聞こえると思い、確認したところ、木が挟まっていた。特に20km圏内では走る道が整備されていないことが多く、オフロードカーの準備が必要であると強く感じた。また、今回調査の楢葉町は本当にアップダウンの多い町であった。町全体は山間部を除くとそう広くない。しかし、町の地形がとても変化に富んでいて、低い部分、高くなっている部分、海岸からすぐ近くでも山のように高くなっている部分が数多くあった。近くを走る常磐道の上を通る道がある一方で、大きな陸橋となっていて下をくぐる部分もあり、高低差を実感した。このような道を走りに走った。案内されたのは丘の上であった。丘の上からは遠く火力発電所が望むことができた。
 手前に木戸川を見下ろす位置で、低くなった田園地帯のような風景を一望できた。この田園のように見える一帯が津波による被害を大きく受けて浸水した場所だという。かなり内陸に入った部分にもまだ水が引かず、がれきや壊れた家がそのままの状態になっていた。

↑遠く広野火力発電所を望む

 さらに、「あの白い建物のところまで行きます」と言ってさらに車を走らせた。行った先は南地区浄化センターの建物跡であった。建物そのものは残っていたが、この建物の高さをはるかに超えて津波が押し寄せた。建物の一番上の方にある窓の海岸側は全て割れたままになっていた。建物の前にあるコンクリートの防波堤は無残にも破壊され、ほぼ一部完全にはぎ取られた状態であった。

↑南地区浄化センターの建物、よく見ると窓は全て割れていた

↑破壊された防波堤

津波の破壊力を語る菅波さん

 日はとっくに傾き、時計は午後5時に近づいていた。海岸の強い風は身体の芯に響くようだった。菅波さんは、町の支援に訪れる人を一度はこの場所に連れて行くそうだ。一瞬にして津波に破壊された町のことをいくら言葉や文章で説明しても伝わりきらないと言う。このように建物や堤防が破壊された様子を実際に見てもらうことで何かを感じてもらいたいのだと話して下さった(写真16)。このような多大な地震津波の犠牲の上、さらに原発事故による放射能汚染の苦悩を強いられている。想像するにあまりあるが、それでも復興・前進している方々がいるのだと考えると、とても他人事とは思えない。私たちは私たちの経験や知識でできる範囲の支援をしたい。そして、継続することが何より大事なことと考えている。

 翌朝、7時45分に宿を出発した。
 「今日は、まさに津波の被害を受けた地域の線量測定、そして、山のほうへ行きます。少し雪が心配ですが。」とのことであった。再び検問を受けて20km圏内に入る。津波被害を受けた地域は、辺り一面枯れ草だらけの荒原であった。道も所々で大きな段差があったり障害物があったりしてスムーズではない。荒原の所々にがれきの山が積まれていた。残った家も津波の破壊の爪痕をはっきりと残していた。

↑荒原に残るがれきの山

津波による破壊の痕跡がそのまま残っていた

 次に向かったのは楢葉町の西方向に位置する山間部の集落であった。雪が心配という菅波さんの言っていたとおり、道は途中から部分的にではあるが凍結路面になった(写真21)。さらに奥に山道を登っていくと一つの集落があった。もちろん人は住んでいない。乙次郎地区、昔は小学校の分校があったらしい。上にも数軒の民家があるとのことであったが、雪で閉ざされて登れなくなる可能性もあり、ここで引き返した。

↑凍結した路面を走る

 菅波さんは町役場職員とはいえ、事実上、土日出勤である。このような事故が起きて、対応に追われる中、土日もなく働いてきたのが実情であろう。体調を崩しているにもかかわらず、2日間にわたりガイドを務めて下さり、町の現状を懸命に語って下さった菅波さんの姿に、心を打たれると共に、今後、私たちがどのように支援を継続していけるか、検討課題は山積していることを思い知らされた。菅波さんとはここで別れ、この後、私たちは独自に町内の未走行箇所を回った。地面がひび割れたところ、マンホールが盛り上がってきてそのままになっているところもあった。放たれ牛にも遭遇した。


↑道路のひび割れはあちこちに

↑1m以上も盛り上がってしまったマンホール

↑放たれ牛の姿が哀しい

 私たちは再び津波浸水箇所を走った。そこには衝撃の風景が待っていた。海岸にほど近い箇所であったが、道は急に上り、誰も通らないのであろう、木が倒れかかり、道も車1台がようやく通れる幅でしかアスファルトがつながっていない悪路である。そして、曲がりくねった坂を登り切ったところに、破壊された家屋のたたずまいがあった。内部も完全に破壊されていた。家の中の時計は震災発生の2時46分で止まっていた。

↑坂の上の家屋

↑2時46分で止まったままの時計
 海側の家屋の損傷が激しく、塀もなぎ倒されている。地震だけでなく、津波がこの高さまで襲ったことが想像できた。しかし、何という高さだろう。海岸とはいえ、海面ははるか下である。この高さをどうにかして伝える写真を撮ろうと思ったが、実際の衝撃はなかなか伝わらない。

↑海側の損傷が激しい

↑この高さまで津波が襲った

 地震の被害、津波の被害、そして原発事故による放射能汚染の被害。3つの被害に遭い、今も苦しむ住民の方々の思いは想像だにできない。町民が町に入ることができず11ヶ月が経った。すでに新しい土地に移り住む人も数多くいる。しかし、この町で生まれこの町で育ち、この町でしか将来を考えられない人も数多くいるに違いない。そして、そのような人たちが災害・事故の被害に正面を向いて一歩ずつ歩み出している姿に、どのような支援ができるだろうか。答えは簡単ではない。しかし、私たちの着実な活動そして、常に、被災地の必要に応じて活動を展開していく中に、少しでも役に立つことができる可能性があるに違いない。今はきめ細かい線量測定を行い、線量地図を作り、情報提供することしかできない。しかし、今後も継続的にできる限りの支援ができればと思う。
 初めての楢葉町訪問は、被災し放射能汚染に苦しむ方々はまだまだたくさんいることを痛感させられる訪問となった。今回、体調が悪い中ガイドをして下さった楢葉町の菅波さんに心から感謝したい。

(by Yugo)