石巻訪問 2011.12.20

昨年末のことになりますが、ブログに書きたいと思っていた宮城県石巻市に行ったときの紹介をしたいと思います。

今回は少し長いです。
最後の方に、写真を集めたアルバムのリンクがありますので、ご覧下さい。

当教室では何度かこのブログで紹介してきたように、震災後復興支援として、南相馬市での線量率測定と通学路の線量率マップの作成を新潟大学アイソトープ総合センター主体のプロジェクトのもと、進めてまいりました。
このため、南相馬市の状況は往復している中で知ることができていましたが、原発事故の影響が福島県ほどはひどくないであろうと考えていた宮城県岩手県津波被災地の現状についてはなかなか想像できずにいました。
むしろ、原発事故の影響がなければ、復興は福島県よりも早いのだろう、ぐらいに考えていました。

それが、今回の宮城県訪問で大きな間違いであったことに気付かされました。

そして、今回の訪問は大学のプロジェクトとしてではなく、非常に偶然が重なっての訪問となりました。
始まりは、昨年、ボストンを訪問した際にGIS(地理情報システム)のカンファレンスで知り合ったUCLAに勤める友人(Yoh Kawano)からの依頼でした。
ロサンゼルスに住むYohから、昨年秋、「被災地に行きたい」というメールが届きました。
僕は理由を問いました。
彼は、日本で生まれましたが、父親の仕事の関係で、タイ、コロンビア、アメリカなどを転々とし、国際人として現在はアメリカに住んでいます。彼は「自分のアイデンティティがわからなくなるときがあった」と語ります。
しかし、昨年3月の大震災の時に、どうしようもない感情に襲われ、日本が心配で心配で仕方がなくなったというのです。それで「初めて、自分が本当の日本人であることを認識した」と語ります。そして、彼の専門分野であるGISを使ったプロジェクトを立ち上げたのです。

彼のそのときの気持ちを僕自身も理解できます。昨年3月、カリフォルニアにいた僕は東日本の窮状を報道で見つめる他なく、いても立ってもいられない気持ちになっていました。そのときに、始めたのが避難所の場所をGISを使ってインターネット上に公開するというものでした。
これが、どれだけ役立てたかは分かりませんが、何かしなくては、何かできることはないか、という気持ちはよく分かります。

話が飛びました。

そのようなYohの気持ちから、GISソーシャルネットワークメディア(ツイッターfacebookなど)を使って人を救うきっかけを作ることができないか、というモチベーションが高まったようです。(TEDという会で彼が語った様子がyoutubeにあります→Youtube

そして、実際に現地を見ることで、自分が何ができるのか、どうしたら良いのかを考えたいと希望していました。

この依頼を受けた僕は、東北大学の先生にお願いして、現在も被災地で復興支援の活動をしている先生を紹介していただき、ガイド・同行してくださることになりました。東北大学微生物学分野の三村先生です。

2011年12月20日
仙台へ向かう新幹線に僕とYohは乗っていました。
話は尽きず、あっという間に仙台に着きました。
風が冷たい日でした。
三村先生が車で仙台駅まで迎えに来てくださり、一路、石巻に向かいました。被災地をみたい、という希望だけで、三村先生は私たちのためにコースをコーディネートして下さいました。
途中、雪が舞っていました。宮城も内陸は雪が多いことを初めて知りました。

石巻市街はそれなりに賑わっているように見えました。
しかし、三村先生の説明を聞くと、それほど楽観的な状況ではなく、インフラが完全に回復していないとのことでした。
現に、あちこちで信号が消えていました。

↑消えている信号

地震津波から9ヶ月を過ぎてなお、被災地では復興とは遠い現状にさらされていることを実感しました。

特に海岸に近づくほど状況は悪く、地面が沈み込んで水没している箇所がそこここにありました。

石巻市夜間救急センターはまるで廃墟のようで、津波に襲われた姿そのままになっていました。

石巻市夜間救急センターの玄関

↑変わり果てた診察室
三村先生の話では、再建するどころか、取り壊すのにもお金がかかるので、皆が使用する優先順位の高い順から順番に進めているのだと言うことでした。

石巻市立門脇小学校、2011年末の紅白歌合戦長渕剛が歌を歌っていた場所です。この小学校は津波に襲われた後、火事になったそうです。半分焼け焦げて黒くなっているのが分かります。

海岸には高く積まれたがれきの山がありました。
ただの山ではなく、この山が海岸に沿って長く続いているのです。

↑左奥ががれきの山

延々と続くがれきの山
テレビでは見る光景でしたが、実際に見ると、衝撃でした。独特のにおいもあり、印象に残っています。

↑信じられない光景


石巻市から女川を通って、牡鹿半島を横切るように三村さんは車を走らせてくれました。
Yohも僕も言葉を失っていました。
半島の沿岸部では、集落ごと消えてしまった、というエリアがいくつもありました。
残っているのはがれきと、家が建っていたであろう場所の土台だけでした。そして、工事車両の他に人は誰もいないというしーんと静まりかえった空間が、やはり信じられませんでした。

↑土台だけが残る。集落ごと消えたエリア。

かつて、ここに人が住んでいた、賑わっていた、ということを想像すると、胸が押しつぶされるような感覚に襲われました。
病院全体が津波に襲われ、ドクターやナースは入院患者さん達を必死に屋上まで上げて、それでも津波が襲ってきて、人々をのみ込んでしまったと。そして、なんとか漂流物につかまったが、その後、凍える寒さに耐えられず亡くなっていったという想像するだけでも涙が出てくる話にどうしようもなくなりました。

↑奥に見える白い建物が市立雄勝病院。入院患者40人、医師・看護師24名全員が死亡した。

未だに大型バスが建物の上に乗ったままの状態の場所にも行きました。

マスコミの報道で知られるようになりましたが、北上川の河口から少し上ってきたところにある大川小学校跡を訪ねました。
数名の児童を除いて、全てが津波にのみ込まれてしまった小学校は今は建物だけが静かに残っていました。
この様子はYohのブログに詳しいので紹介します。


↑大川小の児童はこの”三角点”と呼ばれる高台まで逃げたが、津波は全てをのみ込んだ。

この場所には数人が集まっていましたが、皆、声を失っていました。風が強く、雪が舞う中、がらんどうになった小学校の中にあるクリスマスツリーをじっと見つめていました。↓

ここまで書いてきましたが、長くなってしまいました。
全てを伝えるのが難しいと思い、ここまで持ち越してきましたが、やはり書いてみると、ブログで書ききれるものではない1日でした。

最後に、この日の訪問の記録をYohがwebアルバムとして一時的に作成したページのリンクを載せます。
こちらです→webアルバム
二人で撮った写真は1000枚を超えています。
いずれ、写真を選んで一つの記録としてページを作ろうと、彼が提案してくれています。
こちらがそのページの未完成版です。
日本語訳も作って誰でも見ることができるようにする計画です。

中途半端な報告のようになってしまいましたが、12月20日の衝撃を伝えきるのはなかなか難しいです。

最後に1日中ガイドをつとめて下さり、様々な質問に答えて下さった三村先生に心から感謝申し上げます。

(by Yugo)